素材の帆布が「倉敷帆布」であることを知った。

「倉敷帆布」は名前は知っていたが、それ以上は知らない。
せいぜい「倉敷で作られた帆布」という程度。
で、調べてみた。
気になることはすぐ調べようとする癖は子供のころから変わらない。
「倉敷帆布」とは
岡山県倉敷市周辺を産地とする帆布で、倉敷は国産帆布の7割を生産している一大産地。
江戸時代の綿織物業から、明治時代以降、この地区での帆布づくりが発展していった。
昔ながらのシャトル織機によってゆっくりと織り上げられるそうだ。
「倉敷帆布」で検索すると、「バイストン」「丸進工業」「タケヤリ」という企業が出てくる。

バイストンが経営する倉敷帆布の店
「株式会社バイストン」は、株式会社タケヤリ、丸進工業株式会社、タケヤリ帆布協同組合の出資により帆布の企画、販売会社として設立。
倉敷で帆布生産に関わる複数の企業による共同出資・・・・・。
沿革を見るとなるほどと分かったことがある。
1888年 武鑓石五郎(たけやりいしごろう)・梅(うめ)夫婦が現在地にて織物業を始める。
1903年 第5回内国勧業博覧会に出品、載仁親王より褒状を受ける。(現 株式会社タケヤリ)
1927年 武鑓卓衛(石五郎の長男)が現在地に武鑓織布工場設立し、帆布製造を始める。
1933年 武鑓進衛(石五郎の3男)が隣地に丸進工業を創業、帆布製造を始める。
1938年 武鑓和夫(卓衛の次男)が武鑓織布工場代表となる。(現 株式会社タケヤリ)
1944年 丸進工業株式会社を設立、武鑓進衛が代表取締役に就任。
1963年 武鑓尚(進衛の長男)が丸進工業株式会社 代表取締役に就任。
1966年 木村春雄がタケヤリ帆布協同組合を設立、地域の帆布工場20数社の協同受注事業を始める。
1972年 武鑓昭二が武鑓織布株式会社の代表取締役に就任。
1984年 武鑓澄治が武鑓織布株式会社の代表取締役に就任。
1989年 商号を武鑓織布(株)から(株)タケヤリに変更。
1995年 現社長・武鑓篤志(尚の次男)が丸進工業株式会社代表取締役に就任。
2003年 株式会社タケヤリ、丸進工業株式会社、タケヤリ帆布協同組合の出資により帆布の企画、販売会社として現在地に株式会社バイストンを設立。武鑓篤志が代表取締役に就任。「倉敷帆布」を商標登録する。
2005年 武鑓謙治が株式会社タケヤリの代表取締役に就任。
2008年 倉敷美観地区内に株式会社バイストン「美観地区店」をオープン。
丸進もタケヤリもどちらも社長は「武鑓(たけやり)」。
同族企業なのだ。
タケヤリが長男の家系で、

丸進工業は3男の家系。

ちなみに「バイストン」とは、創業者の武鑓石五郎の「石」(ストーン)とその妻「梅」(バイ)にちなんだ造語。
別々に活動してきた兄弟企業(今でも別企業)が、バイストンで手を組んだわけだ。
「倉敷帆布」をブランド化し、生地としての帆布だけでなく、それを使ったさまざまな商品を企画・開発・販売しているのだ。
倉敷はデニムだけではなかったのだ。いや、帆布にはデニムより古い歴史がある。
面白いのは、バイストンは丸進工業の敷地内にあるらしいが、タケヤリは独自に製品を販売している。
双方に共通した製品がある。
ちょうどタケヤリの製品がオークションに出ていた。
格安だったので買ってしまった。

倉敷帆布でつくったボディバッグ

何と2号帆布でできている。
帆布は数字が少ないほど分厚くなる。
2号帆布はベルトコンベアーの基布となるほど。ちなみに3号帆布は力士の練習用まわしとなるそうだから、2号帆布がいかに分厚く強靭かが分かる。
LLビーンのボート&トートが24オンスのキャンバスを使用しているが、これは4号帆布に相当するそうだ。
つまり、2号帆布はもっと分厚い(笑)。
この分厚さに興味があって買ったようなもんだ。

よって、自立します(笑)。

質実剛健!

ヌメ革のロゴマーク

倉敷帆布に間違いないのだが、あえて「タケヤリ」を名乗る。
実は、ボディバッグはあまり好きではない。
だから「Bush clover」にショルダーを注文したのだ。
(「Bush clover」の倉敷帆布はもっと薄い)
それで、子供たちにプレゼントしようと思った。
が、みんな・・・・・「いらない」だと。
このバッグの良さがわからんのか、お前たちは!とブツブツ言っても仕方がないので、自分で使おうと思う。

倉敷帆布・・・・ただものではないのだ。